私たちホモ・サピエンスは約30万年前にアフリカで出現して世界中に拡散し、日本列島には4万年前ごろ到達していました。人類が石器を作りはじめた時代を旧石器時代と呼び、縄文時代の始まる約1万6000年前まで続きます。松戸で最古の石器は約3万5000〜3万2000年前のものなので、松戸の人類史は旧石器時代からはじまることになります。
地球は寒冷な氷期と温暖な間氷期とを周期的に繰り返しています。現在は間氷期ですが、旧石器時代は氷期だったため生態環境が異なり、関東平野では落葉広葉樹と針葉樹が入り交じる針広混交林が広がっていました。ナウマンゾウやヤベオオツノジカなどの大型哺乳類がいましたが、最も寒い時期に当たる2万7000年前ごろまでには絶滅してしまったようです。
旧石器時代の人びとは動物を狩ったり、植物を拾い集めたりして食料を手に入れていました。氷期の生態環境では利用できる植物が少なく、獲物となる動物は広い範囲を移動するため、1つの場所に留まると資源が枯渇するリスクがあります。そのため、テントのような家に住んで頻繁に移動し、行く先々で資源を獲得する生活をおくっていました。
旧石器時代の遺跡では石器や石のかけらがみつかります。石器は槍などの狩猟具や、獲物を解体・加工する道具として使われ、用途に応じて様々な形があります。石器やかけらのまとまった出土は、石器を作った痕跡と考えられます。そこでみつかったかけらをつなぎ合わせることで、どのような技術で石器を作ったのかがわかります。
石器製作に適した石材は産地が限られており、松戸の周辺では手に入りません。長野県の黒曜石、東北地方日本海側の珪質頁岩などがよく利用されました。移動中に拾ったり、他の集団と物々交換したりして石材を確保したのでしょう。松戸の遺跡では時期によって使われた石材の種類や産地の割合が異なるので、石材獲得戦略に変化があったと考えられます。
日本列島で土器が出現する約1万6000年前から水田稲作をはじめとする農耕が開始されるまでを、縄文時代と呼んでいます。関東地方では2400年前ごろまでとされています。
縄文時代には大量の土器が作られますが、時期や地域によって形や文様が異なります。また、土器の変化を基準にして、縄文時代を草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6時期に区分して研究が進められています。
草創期は、氷期の最も寒かった時期が終わり、次第に温暖化していきます。現在よりは寒冷で、針葉樹と広葉樹とが入り交じる針広混交林が広がっていました。
早期以降は間氷期に入り、現在とほぼ変わらない気温になります。植生は落葉広葉樹林へと変化しました。落葉広葉樹林ではドングリなどの木の実が豊富で、イノシシ・シカに代表される中・小型獣が生息しています。
早期の終わりごろから前期には気候が温暖化し、海面は現在よりも約4m上昇しました。そのため、関東平野の低地は海となっていました。この現象を「縄文海進」、関東平野に入り込んだ内湾を「奥東京湾」と呼んでいます。松戸市域では西側の中川低地や台地を刻む谷が海になっていたと推定されます。
縄文海進の時期には干潟が広がり、豊富な水産資源を利用しやすい生態環境になりました。そのような環境に適応して、当時の海岸線沿いには集落が多数営まれ、貝塚が形成されました。そのありさまをよく示す例が、当時の奥東京湾岸で最大規模の集落の1つである幸田貝塚です。出土品の一部は重要文化財に指定されています。
デジタルマップ 幸田貝塚縄文時代の主な狩猟対象は中・小型獣です。旧石器時代にはなかった石鏃が出土するようになるので、弓矢が使われはじめたことがわかります。狩猟対象に合わせた道具が発明されたのです。また、多くの落とし穴がみつかっており、主要な狩猟方法の1つでした。動物の肉だけではなく、毛皮や道具の素材となる骨も重要な資源でした。
生活の様々な場面で植物が利用されました。木の実が食料となるのはもちろんのこと、枝や幹で木器を作ったり、住居などの建材にしたりしました。
植物の加工には各種の石器が使われました。ドングリなどの殻を割ったり、すりつぶしたりするための磨石や敲石、木を切りたおすための磨製石斧などが代表的です。
魚や貝は寒冷だった草創期以前でも食べられていましたが、早期以降はとくに利用が活発になり、骨や貝殻を大量に捨てた貝塚が形成されます。温暖化により海面が上昇し、漁撈や貝の採集に適した干潟が形成されたためと考えられます。松戸でも貝塚を形成した集落が多数みつかっており、水産資源の消費が盛んだったと考えられます。
草創期の生態環境は基本的に旧石器時代と変わらないので、1つの場所に留まらない生活が最適な生存戦略でした。一方、早期以降の温暖な気候の続く環境では、将来にわたって資源が手に入ることを予測できるため、頻繁に移動する必要はありません。そのため、長期間の居住を前提に竪穴住居を建て、集落を作るようになったのです。
縄文時代の遺跡では何に使ったのかよくわからない不思議な道具がしばしばみつかります。人間の形をした土製品である土偶、男性器をかたどったと考えられる石棒などが代表的です。食料の獲得・加工のような実用的な機能はなさそうです。お祭りに使った道具だという説もあり、当時の精神文化の一端を示しているのかもしれません。
特定の産地でしか手に入らない資源が遠く離れた縄文時代の遺跡からみつかることがあります。たとえば、松戸では新潟県産のヒスイで作った玉がみつかっています。また、他地域で流行した形や文様をまねしたような土器がみつかります。松戸に住んでいた集団は、資源や情報をやりとりする他地域とのネットワークを形成していたと考えられます。
大陸から稲作を中心とする農耕文化の波が到来するなかで、弥生時代をむかえます。やがて、日本列島は土を盛った巨大な墓をつくる古墳時代となりますが、これは近畿地方を中心に国家が形成されていく段階にあたります。市内の遺跡からも、こうした弥生・古墳時代の歴史を物語る資料が発見されています。
中国大陸や朝鮮半島から渡来した人々が農耕文化をもたらし、列島の弥生時代は幕をあけます。とくに、稲作の伝来は人々の生活を大きく変えました。水田の開墾や灌漑は集団作業を必要とし、指導者の出現をうながしました。また、水田はそれぞれの集団の所有となり、土地と人間の結びつきが一段と強まりました。
土器の特徴を調べると、その時期や地域のまとまり、人々の動きを探ることができます。弥生時代の関東は、特徴が異なる土器をもつ、いくつもの地域圏に分かれていました。しかし、3世紀に入ると、近畿・東海地方の特徴をもつ外来の土器が、人の移動とともに流入します。こうして地域圏は消滅していき、古墳時代をむかえます。
古墳時代の中頃、5世紀になると朝鮮半島との交流が頻繁となり、多くの人々が渡来してきました。渡来人たちは、灰色で硬質の土器である須恵器の生産や、住居の壁際に設けた竈の使用など、新しい技術や文化をもたらしました。竈での調理に適した長胴の甕や大型の甑などの土器も登場し、食生活も大きく変化しました。
古墳時代とは、「巨大な墓=古墳」を築造することが重視された時代です。なかでも前方後円墳という墳形が、日本列島各地に波及しました。その発信源が近畿地方を地盤とするヤマト王権です。古墳の規模や形の違いには身分秩序が反映され、さらには葬送儀礼の共有によって、ヤマト王権と各地の首長を強く結びつけた連合体制が形成されました。
河原塚1号墳は縄文時代後期の貝塚の上に築かれた古墳です。アルカリを主成分とする貝混じりの土で築造されていたために、人骨の遺存状態が良く、墳丘中央の木棺には、身長約172cmで50歳を越える男性と3歳位の幼児が埋葬されていたことが判明しました。肉親だとすれば、祖父と孫といった関係かもしれません。
デジタルマップ 河原塚1号墳松戸で明瞭な形で現存する最古の古墳は、5世紀中頃から後半と考えられる河原塚1号墳です。河原塚古墳群には全部で5基の円墳が認められ、径約26m、高さ4mの1号墳は最大のものです。埋葬施設は2ヵ所に確認されており、剣・刀・鉄鏃・ガラス玉などの副葬品が出土しています。
デジタルマップ 河原塚古墳群古墳時代の遺物の中には、実物をまねた滑石製の模造品があります。古墳の副葬品や神まつりの祭具として用いられました。当初は、剣・刀子・農工具などの形を忠実に模した精巧な作りでしたが、しだいに多く製作されるようになると、小型で粗雑なものへと変化を遂げます。同時に、古墳だけでなく、集落の祭祀でも多く用いられるようになりました。
古墳時代後期には、それまで古墳が造られなかった地域にまで中・小規模の円墳が築かれ、各地域の独自性も現れてきます。また、古墳に立てられた埴輪の特徴から生産地、そして流通の範囲がわかります。松戸の場合、千葉県北部で主流となる埴輪よりも、埼玉県や群馬県の特徴をもつものが多く認められ、その交流関係の一端がうかがえます。
律令を統治の柱にした本格的な国家がはじまる奈良・平安時代。その頃の松戸は、下総国西端の葛飾郡に含まれていました。松戸では、当時の役人の身分を示すベルトの飾り(銙帯金具)や、土器の底や外面に文字や絵画を描いた墨書土器などが出土しています。
華やかな平城京の文化は、すべての土地・人民を天皇の下に集める公地公民制を基礎とした律令制度に支えられたものでした。大宝元年(701)制定の「大宝律令」では、全土を国・郡・里という行政単位に分け、国司・郡司・里長によってそれぞれを統括させました。
「更級日記」に描かれた「まつさとのわたりのつ」が松戸の地名の起こりかともいわれています。市内では古代の遺跡は多くはありませんが、そのなかで、小野遺跡は竪穴住居跡や掘立柱建物跡などが多く見つかった大集落です。出土遺物の中には墨書土器や、銙帯金具と呼ばれる、律令時代の役人の身分を示したとされるベルトの飾りが出土しています。
デジタルマップ 小野遺跡小野遺跡から出土した銙帯金具ですが、これは律令時代の役人の身分を示すベルトの飾りです。1つの住居跡から、15個がまとまって出土しました。このように、ベルト1本分がそろった状態で出土するのは、大変めずらしいです。下総国府に仕えた役人が身につけたと考えられます。
小野遺跡では、墨書土器が多く出土しています。なかでも「石世」と書かれたものは、「いわせ」と読めますが、小野遺跡が位置する場所は明治22年まで岩瀬村と呼ばれていました。この地名の起源が古代にまでさかのぼる可能性があります。
坂花遺跡では、火葬骨を納めた骨蔵器が出土しています。高坏と呼ばれる脚をもつ土器を逆さまにのせて、蓋としていますが、その表面に「國厨」の墨書があります。「厨」とは、国府の食料や食器の供給施設の意味であり、古代の役所から出土する例がほとんどです。骨壺に記された例は大変めずらしく、下総国府と関係があった人物であったと考えられます。
デジタルマップ 坂花遺跡武士が政治の真ん中に坐る時代が来ました。多くの戦いが起こった鎌倉・室町時代を中心とした500年ほどを「中世」と呼んで、次の天下が統一された「近世」と区別しています。中世では、博物館の所蔵資料をもとに、戦国時代の松戸やそのまわりの世界を見ていきます。
源頼朝に仕えた下総千葉氏は、多くの鎌倉幕府御家人を出し、関東屈指の名門として続きます。12~15世紀、上本郷の風早氏に高柳では相馬氏が、また矢木、冨木、曽谷、太田、円城寺、原、高城などの千葉一族や家臣が、市域や周辺で活躍しました。戦国時代の小金城・小金領の成立には、このような歴史が影響を与えています。
関東・東北では室町時代の15世紀中頃から16世紀末の豊臣秀吉の天下統一までの150年ほどを、戦国時代と呼びます。小金領は、いまの松戸・市川・流山・柏・鎌ヶ谷ほぼ全部と我孫子・船橋の一部を合わせた広大な領土で、小金城が支配の拠点です。千葉氏家臣でありながら主人を凌ぐ実力を持つ原氏が始め、のちに高城氏に譲られました。
国府台合戦(市川市)直前の軍事動員命令。房総半島を支配しつつあった里見氏と、今の静岡県東部から神奈川・東京・埼玉へ勢力を拡げた北条氏の激突です。「里見軍が市川で兵糧調達に手間取り、岩槻(さいたま市)太田氏と連携が取れない。この機に攻撃を!」と小金城主高城氏から北条氏へ伝令が走り、北条氏康は即刻「兵糧は三日」分、「陣夫さえ不要」だが、「戦える者は総動員」と厳命、電撃的に国府台へ急行し、勝利しました。
デジタルコレクション 北条氏康書状里見氏は、太田氏や越後(新潟県)から小田城(つくば市)あたりに侵入していた上杉謙信と連携も取れず、敗れました。この文書は、戦国時代1の宛先の西原氏が、合戦に参加した恩賞に北条氏から得た給与でしょう。勝者の北条氏はこののち北と東へ、つまり松戸市域を含む下総国へも本格的に侵入します。
デジタルコレクション 北条家朱印状1行目の「凶徒臼井」は、凶徒/上杉謙信軍が原氏本拠の臼井城(佐倉市)を攻撃した事件を指し、それを撃退したことを喜ぶ書状です。当時、臼井の西側の小金領も危機に陥ったことは、本土寺の制札、つまり侵略軍である上杉氏が与えた安全保証書でも明らかです。以後謙信は関東侵略をためらい、高城氏の敵は里見氏に限られてゆきます。
デジタルコレクション 足利義氏書状今川・北条v.s.武田戦争が静岡県で続く中、1行目「敵、松戸・市川迄相い散らし」と、小金領内の松戸と市川の作物が「散らし/根絶やし」にされました。戦国時代3の臼井(佐倉市)では村々の放火です。戦死者を出さない「省エネ戦争」を仕掛けた里見氏は、敵地に食料危機と避難民を生み出し、同時に戦国時代5・6の政治情勢に対応したかったに違いありません。
デジタルコレクション 千葉胤冨書状今川氏が援軍に来た西原氏へ、北条氏からの恩賞を約束したものです。武田信玄の猛攻で今川氏は静岡県西部へ逃げるも、徳川家康の迎撃が待っています。北条氏の命令で本佐倉城(酒々井町)の千葉氏が小金城へ、小金城主高城氏は江戸城下へと配置転換された結果、下総国は北条氏も認める手薄な状態に陥るのです。
デジタルコレクション 今川氏真書状戦国時代5から4か月、長期化した戦争で負傷した西原氏への感謝状です。この間、武田氏も北条氏も、上杉謙信との和平締結に躍起になります。留守中の本国への上杉軍の侵略に、武田も北条も、不安は頂点に達します。静岡県の戦場に居ない里見氏は、北条側の下総原氏や高城氏に「省エネ戦争」(戦国時代4)を仕掛けることで参加実績を稼ぎ、戦後の立場を有利にしたかったのでしょう。
デジタルコレクション 今川氏真感状西原文書と豊前氏古文書、まったく異なる資料群を他の資料も交えて検討すると、意外にも静岡県の戦争が松戸市域と密に関わることがわかりました。北は越後の上杉謙信から、西は武田信玄が頼った京都の足利将軍や織田信長まで、広範囲です。大きな政治の動きの中で、高城氏の小金領内にある松戸と市川の農地は荒らされ、原氏の臼井城下の村々は焼かれたのです。
豊臣秀吉と徳川家康による小牧・長久手合戦の時、関東では家康側の北条氏と秀吉方の佐竹・宇都宮氏らが、4か月にわたり沼尻(栃木県栃木市)で代理戦争に突入します。小金領の混乱を抑える制札も出されたように、高城氏にとっても非常時です。この文書は2行目の「徳政令(借財の返済帳消し許可)」を適用しないことを北条氏が保障したものなので、高城氏はこの折、誰かに兵糧を貸す形で北条軍を支援していたことがわかります。
デジタルコレクション 北条家朱印状最古の小金城絵図ですが、注目すべきは「栗ヶ沢には昔の高城氏家老の城跡がある」の一文です。松戸市の栗ヶ沢は15世紀から高城氏が複数確認できる、ゆかりの土地です。「これは城だ」と認識できる遺構や地形が、18世紀には存在していた可能性を強く示唆し、それは家老伝承以前に、高城氏のそれを想像させる点が貴重です。
デジタルコレクション 小金城図写広い小金領を支配した、下総国第3位の面積を持つ小金城の中心部分です。台地に入り込む谷を深く長く掘り進めて堀を造り、余った土は台地縁辺の土塁に利用することでさらに高低差を付けて、防御力を高めます。本城や中城の東側の突き出し部分は櫓台で、迎撃拠点です。大谷口歴史公園では、特殊な畝状空堀も発見されました。
デジタルマップ小金城跡カワラケは、生活空間の機能を持つ城郭から、もっとも多く発見される資料で、本来は酒杯です。しかしなぜか銅の塊が付着しています。よく見ると大陸渡来の銅銭が溶かされてるようです。ふつうは鉛で作る鉄砲の弾丸も、銅まじりのものが出土しています。銅を溶かすには高温の炉が必要ですが、小金城で鉛玉が不足したのでしょうか。
戦国の世から、徳川家康が江戸幕府を開いて平和な時代が訪れます。幕府は村を行政単位として支配し、名主・組頭・百姓代の三役人に年貢納入をはじめとする村の運営を命じました。市内にあった57の村の大半は戦国時代以来ですが、江戸初期に江戸川沿いの低湿地を水田化し、続いて台地上の畑地を開発した「新田」村が13か村生まれました。
領主は年貢を取るため、耕地や屋敷の面積を残らず測り、田畑の良し悪しも調べて、耕作者を決めました。その記録が検地帳です。村には写しが残りました。検地の結果、村の生産力を米の量に換算した村高が決められて、課税の基準となりました。
秋になると、領主は各村で米の実りぐあいを調べて年貢量を決め、その結果を記した年貢割付状を下して納入を命じました。村では、村役人が農民から年貢を集め、納める仕組みになっていました。
人のからだには三尸という虫がいて、60日に一度めぐってくる庚申の日、眠るとからだを抜け出し、その人の悪事を天の神様に告げ口して命を縮めるとされていました。虫が抜けださぬよう徹夜をするのが庚申待で、江戸時代にさかんになり、列島各地に庚申講ができました。男性だけが入ることができ、夜通し精進料理やお酒を楽しみました。市内には、講の結成などを記念した庚申塔が300以上残っています。
この文化2年(1805)の紙敷村「庚申待講帳」には、買った食材や台所道具の値段が記されています。それをもとに総合展示室では、「ごはん」「白あえ」「煮物」「お吸い物」「お酒」を再現しています。
水戸道中の宿場として、松戸宿と小金宿がありました。二つの宿には武士の泊まる本陣と脇本陣、人や荷物を運ぶ人馬を差配する問屋場が置かれ、宿ごとに積み替えるリレー形式で輸送をしました。宿場は交通の拠点となり、旅籠・商店ができて賑わいました。また松戸宿近くの江戸川べりには、川船の港・河岸ができ、物資が行き交いました。
水戸道中、正式には水戸佐倉道は、日本橋(中央区)を起点とし、千住宿(足立区)で日光道中から分れ、次の新宿(葛飾区)でさらに水戸道と佐倉道に分かれます。水戸道中2番めの宿が松戸、3番目が小金です。16の宿を経て、水戸城下に至りました。全行程は約120kmです。小金に専用の本陣を設けたほか、なにかと水戸徳川家との結びつきが強い街道でした。
江戸幕府は元和2年(1616)、松戸を関東でわずか16か所の定船場の1つとしました。江戸川をはさんだ金町村(葛飾区)側には、人と荷物を改める金町松戸関所ができます。幕府の第一の目的は「入り鉄砲に出女」といって、江戸に武器が持ち込まれるのと、江戸から大名家の女性が無断で出ることを取り締まることです。なお庶民の通行には、身元を証明する往来手形が必要でした。
水戸道中の通行が増えるとともに松戸宿はさらに発展し、下横町・宮前町・一丁目・二丁目・三丁目・納屋河岸・平潟の7地区ができますが、中心は本陣・脇本陣・問屋場のあった宮前町でした。街道沿いには旅籠28軒、食物屋33軒をはじめ、317もの建物が連なっていました。
古くからの交通の要衝で、室町時代はじめには複数の町場がありましたが、江戸時代には上町・中町・下町・横町ができていました。下町には虚無僧寺の一月寺、中町には本陣・脇本陣・問屋場や浄土宗の学問所であった東漸寺、上町には小金牧を管理した野馬奉行綿貫氏の役宅、横町への街道分岐点には八坂神社がありました。
幕府は公用の旅行者と荷物を輸送するため、宿場の住民へ伝馬(輸送用の馬)と人足を課しました。松戸宿は人足25人・馬25匹、小金宿には人足8人・馬8匹と定められました。しかし交通量が増えると不足したため、周辺の村々に人馬を提供させる助郷役という税を課しました。宿と村、どちらにとっても重い負担でした。
利根川・荒川とならぶ流通の大動脈であった江戸川には、川港の松戸河岸ができ、江戸方面にも上流の各地にも大量の人や荷物を送りました。たとえば銚子から船で利根川をさかのぼり、布佐(我孫子市)で陸揚げされた鮮魚は、馬で松戸河岸まで送られ、ふたたび船で日本橋(中央区)の魚市場まで届けられたのち、江戸の庶民の食卓にあがったのです。
スペシャルコンテンツ 河岸模型江戸幕府は下総台地に小金牧と佐倉牧の馬牧を設けました。年に1度の野馬捕りで良馬を捕らえて、牡馬は武士の乗馬用に、牝馬は農業や運送用に使いました。また徳川将軍は、今の五香・松飛台付近で、大勢の武士と農民を動員した狩りを4回行いました。これが小金原御鹿狩です。
慶長年間(1596-1614)に幕府が開設した小金牧は、はじめ7牧、のち高田台牧・上野牧・中野牧・下野牧・印西牧の5牧となります。その範囲は、北は野田市から南は千葉市北部に及ぶ広大なものでした。松戸市域には中野牧がありました。
小金牧は小金宿在住の野馬奉行綿貫氏が代々管理し、周辺に住む有力農民が牧士として馬の世話や牧の維持を行いました。幸谷観音には、職を解かれた彼らが、ありし日を懐かしみ明治15年(1882)に奉納した絵馬があります。馬を追い込むようす、楽しそうな見物人たち、露店まで出ているさまが描かれています。
デジタルマップ 野馬除け土手・福昌寺徳川将軍が催した大規模な狩猟を、御鹿狩といいます。吉宗・家斉・家慶の3人が、享保10年(1725)から嘉永2年(1849)の間に4回行いました。シカ・イノシシなどの害獣駆除と、軍事訓練を目的に旗本・御家人、そして百姓勢子が大量に動員されました。
スペシャルコンテンツ 小金御狩之図(こがね おかりのず)御鹿狩で野獣を狩場(現松飛台付近)まで追い込むのは、百姓勢子の仕事でした。11代将軍家斉が行った寛政7年(1795)の際は、381カ村から7万人以上の百姓勢子が、北は常陸国、南は大多喜、東は銚子方面から野獣を追いました。国名・村名・参加人数を書いた御用幟を先頭に、竹杖、竹笛、携帯の食料を持ち、鉄砲や花火まで使っての作業でした。
スペシャルコンテンツ 寛政七年小金原御鹿狩絵図(かんせいしちねん こがねはら おししがりえず)江戸川には、幕府の政策で橋を架けませんでしたが、御鹿狩のときは別です。将軍が渡るため、船を20隻以上繋いで材木を渡した上にムシロや土を敷き、欄干までつけた仮の船橋を作りました。そして船橋の下流には、将軍の御座船・麒麟丸が万一に備えて停泊しました。
スペシャルコンテンツ 下総小金乃原鹿狩之図(しもうさ こがねのはら ししがりのず)長く続いた武士の政治が廃され、農業国日本は、工業を中心に経済力を強める近代国家へ。1868年から1945年の明治・大正・昭和前期は、戦争が数多くの悲劇をもたらす一方、人々が新しい知識をもとに、貧しさや迷信からの解放を目指した時代でもあります。松戸の日常の風景にも、そんな時代の雰囲気が感じられます。
拡大写真をみる
説明 | 常磐線開通以前 |
---|---|
年代 | 1908年 |
所蔵表記 | 葛飾区郷土と天文の博物館所蔵 |
拡大写真をみる
年代 | 1910年前後 |
---|---|
所蔵表記 | 岡進氏所蔵 |
拡大写真をみる
年代 | 1910年前後 |
---|---|
所蔵表記 | 戸定歴史館所蔵(徳川昭武撮影) |
拡大写真をみる
説明 | 江戸川沿いの田 |
---|---|
年代 | 1910年前後 |
所蔵表記 | 戸定歴史館所蔵(徳川昭武撮影) |
拡大写真をみる
年代 | 1911年 |
---|---|
所蔵表記 | 松戸市立博物館所蔵 |
拡大写真をみる
年代 | 1911年 |
---|---|
所蔵表記 | 戸定歴史館所蔵(徳川昭武撮影) |
拡大写真をみる
説明 | 松戸町 |
---|---|
年代 | 1910年~1920年代 |
所蔵表記 | 吉野誠旧蔵・流山市立博物館所蔵 |
拡大写真をみる
説明 | 小金町中金杉信用組合 |
---|---|
年代 | 1910年~1920年代 |
所蔵表記 | 吉野誠旧蔵・流山市立博物館所蔵 |
拡大写真をみる
年代 | 1910年~1920年代 |
---|---|
所蔵表記 | 吉野誠旧蔵・流山市立博物館所蔵 |
拡大写真をみる
説明 | 八木村は今の流山市南部 |
---|---|
年代 | 1910年~1920年代 |
所蔵表記 | 吉野誠旧蔵・流山市立博物館所蔵 |
拡大写真をみる
年代 | 1910年~1920年代 |
---|---|
所蔵表記 | 吉野誠旧蔵・流山市立博物館所蔵 |
拡大写真をみる
年代 | 1925年 |
---|---|
所蔵表記 | 吉野誠旧蔵・流山市立博物館所蔵 |
拡大写真をみる
説明 | 江戸川の納屋河岸あたり |
---|---|
年代 | 1926年 |
所蔵表記 | 葛飾区郷土と天文の博物館所蔵 |
拡大写真をみる
年代 | 1927年以前 |
---|---|
所蔵表記 | 吉野誠旧蔵・流山市立博物館所蔵 |
拡大写真をみる
説明 | 松戸駅近くの旧水戸街道 |
---|---|
年代 | 1930年頃 |
所蔵表記 | 所蔵者未詳 |
拡大写真をみる
年代 | 1930年頃 |
---|---|
所蔵表記 | 所蔵者未詳 |
拡大写真をみる
説明 | 松戸-秋山間路線 |
---|---|
年代 | 1932年頃 |
所蔵表記 | 所蔵者未詳 |
拡大写真をみる
説明 | 松戸町役場前 |
---|---|
年代 | 1939年 |
所蔵表記 | 所蔵者未詳 |
拡大写真をみる
説明 | 『商工新聞』第14号 |
---|---|
年代 | 1948年 |
所蔵表記 | 松戸市立博物館所蔵 |
拡大写真をみる
説明 | 松戸駅前通りと旧水戸街道の交差点 |
---|---|
年代 | 1959年 |
所蔵表記 | 所蔵者未詳 |
松戸市の西側には江戸川沿いの低地が広がり、東側は広大な下総台地につながっていて、土地により特色のある景観がみられます。これらの土地は地理的条件の違いから「下谷」「谷津」「台」と呼ばれていて、急激な宅地化がはじまるまではそれぞれ特徴のある暮らしが営まれていました。
下谷とは、江戸川と下総台地にはさまれた市域西部の標高2mから5mほどの低地をさすことばで、一面に水田が広がっていました。台地から下る水を集めて北から南へと流れる坂川は、秋の台風シーズンになるとたびたび洪水の被害を引き起こしたので、安定した収穫は望めませんでした。
秋の水害を避けるために早稲が多く作付けされ、5月の節供前には田植えが終わり、9月なかばには刈り取りを終えました。刈り取り後の稲は畦に植えられた穂架木(ハンノキ)に掛けて干しました。踏車は水田に水を揚げるために使われていました。
畦の脇の水路とは別に、ホリと呼ばれる水路が北から南へとつながっています。かつては稲などを運搬するために、4~5mの長さの舟がホリで使われていました。舟を主屋や納屋の軒下に吊りさげていた家も多く、これは洪水に対する備えでもありました。
この集落の屋敷は北から南に直線状に並んでいますが、これは自然堤防の微高地を屋敷地に選んでいるものと考えられます。屋敷地全体にジンギョと呼ばれる土盛がほどこされ、この家では主屋の裏にある倉をさらに高くして、洪水による浸水に備えています。
谷津とは台地に刻まれた谷をさすことばで、市域では下総台地にみられる樹枝状の谷をいいます。この集落の標高は谷底でおよそ10m、台地上が30mで20mの比高があります。谷底には下谷の水田に比べて不規則な形をした小さな水田(谷津田)が開かれていました。谷津の周囲の台地は、畑やヤマと呼ばれる林として利用していました。
谷津田は谷の奥から流れる冷たい湧水を主に利用する水田で、排水が不完全な湿田でした。場所によって腰まで水につかる深田もあり、足をとられないようにカンジキと呼ばれる田下駄をはいたり、タケやマツ材を田に入れて足の踏み場にしていました。
畑を除くと台地の多くはヤマと呼ばれる林で、スギ、マツ林が一部にあるほかはシイ、コナラ、クヌギなどの雑木林が広がり、燃料(枝)や堆肥(落ち葉)の供給源でした。燃料となる小枝を運ぶ場合、荷車では登れないような斜面の道では背負子が使われていました。
この集落では、南側または東側に向いた台地のへりを屋敷地に選んでいる例が多くみられます。この家も台地を西側に背負うことで、屋敷を囲んだケヤキ、シイなどの高木とともに冬の北西風(季節風)を防ぎ、見通しのきく東側に表を向けています。
台とは高台を示すことばで、市域の東に広がる下総台地上の標高25m~30mほどの起伏のゆるやかな土地をさします。この集落では短冊状に開発が行われ、家ごとに畑、屋敷地とヤマと呼ばれる林がつながって一区画になっています。ヤマでは植林されたマツ、スギのほかコナラ、クヌギなどの雑木林が広がり、クヌギは木炭に加工されていました。
最も作付面積が大きいのは冬作の麦で、大麦は5月末、小麦は6月に刈り取りました。麦の作付けの合間にはオカボ(陸稲)、サツマイモ、サトイモが作られていました。このほかにダイコン、ネギ、ゴボウなども作られ、収穫した野菜の運搬には背負籠などが使われました。
深さ7~12mほどの本井戸か、2~6mの宙井戸を掘っていました。本井戸は関東ローム層の下の成田層と呼ばれる砂層まで掘り下げて井戸とし、宙井戸は関東ローム層のところどころにたまった地下水を利用するものです。台には河川や湧水がないため、井戸水は重要な生活用水でした。
この集落は土地利用が規則的で、どの家も屋敷裏の北側にヤマを背負い、南側は耕作地として畑を持っていました。この家は集落の開発に関わりを持つ家で、ケヤキが屋敷を囲んで植えられているなど開発時の景観をうかがうことができます。
松戸市はその大半を占めた農村地帯から首都圏の住宅都市へと、大きく変貌していきます。その先駆けが大規模集合住宅として日本住宅公団が建設した常盤平団地4,839戸で、昭和35年(1960)に入居が始まりました。ここでは、最新設備に暮らす、都心勤めのサラリーマン家族の昭和37年の暮らしを描いています。
スペシャルコンテンツ 昭和の団地VR昭和33年(1958)頃から、マスメディアでは団地の入居者を団地族と呼んで、もてはやしました。昭和35年版『国民生活白書』では団地族を、「世帯主の年齢が若く、小家族で共稼ぎの世帯もかなりあり、年齢の割には所得水準が高く、一流の大企業や公官庁に勤めるインテリ、サラリーマン」と記しています。
公団住宅の代名詞ともなった2DKは、2部屋の和室とダイニングキッチンという間取りの住宅です。DKは、Dining RoomのDとKitchenのKを合わせた略称で「台所兼食事室」を意味します。食寝分離という設計思想による住宅で、さらに水洗トイレ、ステンレスの流し台などの最新設備も備わっていました。
公団住宅のキッチンの流し台は当初、一般の住宅と同様に「ジントギの流し」と呼ばれる人造石でしたが、やがて実用化されたステンレスの流し台に変わりました。このキッチンは、ステンレスの流しを作業台とガス台の中央に配置した「ポイントシステム」と名づけられました。
テレビ放送は、昭和28年(1953))から始まりました。当初の価格は売れ筋の14型で17万5,000円でしたが、昭和30年には10万円以下に下がり、一般の家庭へ急速に普及しました。この写真の白黒テレビは、常盤平団地のある家族が昭和35年の年末に買ったものです。
電気洗濯機は、昭和30年代に急速に普及しますが、特に団地の住人は一般の家庭よりも早かったことが、昭和35年版『国民生活白書』に記されています。たらいと洗濯板で一つ一つ手洗いする重労働から人々を、とりわけ女性を解放する役割を果たしました。ちなみに、脱水は手回しローラー式の絞り器で行います。
昭和30年代半ばまでは、氷の冷気で食品を冷やす氷式冷蔵庫が使われていました。電気冷蔵庫は氷を作り、冷やし続けて食品を保存し、食品のまとめ買いさえができるようになりました。メーカーは電気冷蔵庫で冷えたビールが飲めることを宣伝しています。この丸みのあるフォルムの電気冷蔵庫のドアノブは栓抜きに使えました。
昭和30年(1960)に東芝から発売された電気釜は、自動的にスイッチが切れるもので、「カンに頼らず科学的に滋養豊富なご飯が炊ける」が宣伝文句です。火加減に気を遣う必要がない電気釜は、3年間で200万台を販売しました。昭和32年以降、続々と他のメーカーも販売を開始し、急速へ家庭へ普及していきました。
常盤平団地では、1960年の入居開始当初、家具店が団地内でダイニングテーブルと椅子を露店販売していました。写真の家族は1960年に入居し、当初は和室でちゃぶ台を使って食事をしていましたが、一年後に子どもの成長に合わせ、ダイニングテーブルを使うようになりました。
水洗トイレにしろ洋式便器にしろ、昭和30年代半ばの人々はまだ使い慣れていませんでした。常盤平団地入居の栞には、「水洗便所は、綿、新聞紙、吸殻等は絶対禁物」と記し、下水管を詰まらせないように注意し、さらに洋式便器については「洋式便座は、便器に背を向けてお坐りください」と使い方まで説明しています。