ホーム
デジタルコレクション
観光情報
デジタルマップ
モデルコース
スペシャルコンテンツ
3Dコンテンツ
高精細コンテンツ
バーチャルツアー
松戸市の歴史
こどもミュージアム
言語切り替え
日本語
English
ホーム
デジタルコレクション
観光情報
デジタルマップ
モデルコース
スペシャルコンテンツ
3Dコンテンツ
高精細コンテンツ
バーチャルツアー
松戸市の歴史
こどもミュージアム
言語切り替え
日本語
English
ホーム
こどもミュージアム
まつどのれきし
旧石器
松戸
(
まつど
の
歴史
(
れきし
のはじまり
松戸
(
まつど
の
歴史
(
れきし
のはじまり
まつどにはおよそ3万5000年前から人がすんでいました。当時のまつどはいまよりも寒い気候だったので、生えている植物やすんでいる動物もいまとはちがっていました。
人びとは
狩
か
りや木の実ひろいで食べ物を手に入れていましたが、えものになる動物が動き回るのに合わせて、住む場所を変えながらくらしていました。
× とじる
石器
(
せっき
)
の
形
(
かたち
)
石器
(
せっき
)
の
形
(
かたち
)
旧石器時代
きゅうせっきじだい
の人びとは、石を
割
わ
ってつくった
石器
せっき
を使っていました。石器は食べものとなる動物をつかまえるためのヤリ先にしたり、動物の肉を切り分けたりするのに使います。使い方に合わせて、いろいろな形の石器がつくられました。
× とじる
石材
(
せきざい
)
の
獲得
(
かくとく
)
石材
(
せきざい
)
の
獲得
(
かくとく
)
石器
せっき
をつくるためにはするどく
割
わ
れる石が必要ですが、手に入る場所は限られています。松戸では長野県や山形県などでとれる石が使われていました。移動するとちゅうでひろったり、他のグループの人からもらったりして石を手に入れたのでしょう。
× とじる
縄文
縄文時代
(
じょうもんじだい
)
縄文時代
(
じょうもんじだい
)
日本列島では、
土器
どき
が作られるようになった時代を
縄文時代
じょうもんじだい
といいます。
気候
きこう
がいまと同じくらいあたたかくなると、森で木の実がたくさん手に入るので、食べ物をもとめて引っこす必要がなくなります。そこで人びとは
竪穴住居
たてあなじゅうきょ
という家をたて、村を作ってくらすようになりました。
× とじる
縄文
(
じょうもん
)
海進
(
かいしん
)
縄文
(
じょうもん
)
海進
(
かいしん
)
縄文時代
じょうもんじだい
には、地球全体が今よりも温かい時期がありました。気温が上がると
氷河
ひょうが
がとけて海に流れこむので、海面が高くなり、海が広がります。これを「
縄文海進
じょうもんかいしん
」といいます。松戸のあたりでは現在の陸地の低い場所まで
東京湾
とうきょうわん
が入りこんで、海になっていました。
× とじる
海辺
うみべ
のむら:
幸田貝塚
こうでかいづか
海辺
うみべ
のむら:
幸田貝塚
こうでかいづか
縄文海進
じょうもんかいしん
で海が広がると、魚や貝を手に入れやすくなります。食べ物が手に入りやすい場所には人が集まり、むらができます。むらでの生活を続けていると、食べた貝のからや魚の骨が少しづつたまって、
貝塚
かいづか
ができます。
幸田貝塚
こうでかいづか
はそうしたむらのひとつです。
× とじる
縄文時代
(
じょうもんじだい
)
の食べもの
縄文時代
(
じょうもんじだい
)
の食べもの
縄文時代
じょうもんじだい
の人びとは森で木の実をひろったり、
狩
か
りで動物をつかまえたり、海や川で魚をとったりして食べ物を手に入れていました。食べ物を手に入れ、食べられるように
加工
かこう
するために、さまざまな道具がつかわれました。たとえば、
狩
か
りをするための弓矢や落とし穴、木の実のからをむいたりつぶすためのたたき石やすり石、
調理
ちょうり
するための土器などです。
× とじる
不思議
(
ふしぎ
)
な
道具
(
どうぐ
)
不思議
(
ふしぎ
)
な
道具
(
どうぐ
)
縄文時代
じょうもんじだい
のむらでは不思議な道具がみつかります。ねんどで人の形をつくった
土偶
どぐう
、石を男性の
性器
せいき
の形にけずった
石棒
せきぼう
などです。どのようにつかった道具なのかはわかっていませんが、おまつりに使う道具だったという説もあります。
× とじる
地域
(
ちいき
)
間
(
かん
)
のネットワーク
地域
(
ちいき
)
間
(
かん
)
のネットワーク
縄文時代
じょうもんじだい
の
土器
どき
の
文様
もんよう
には、その土地その土地で流行があって、場所がちがえば別の文様がつけられました。ところが、松戸では東北地方など遠い土地で流行っていた文様の土器も、ときどき見つかります。土器をもらったり、人が行き来したりするような交流があったのでしょう。他の土地の土器をまねすることもあったかもしれません。
× とじる
弥生古墳
稲作
(
いなさく
)
社会
(
しゃかい
)
の
誕生
(
たんじょう
)
稲作
(
いなさく
)
社会
(
しゃかい
)
の
誕生
(
たんじょう
)
弥生時代
やよいじだい
には、田んぼでお米をつくって食べる、という新しい文化が、大陸から伝わってきました。やがて、土を盛った大きなお墓がつくられるようになります。お墓の大きさや形によって、
亡
な
くなった人のえらさをあらわしました。このお墓を
古墳
こふん
と呼び、これがつくられたのが古墳時代です。
× とじる
土器
(
どき
)
の
変化
(
へんか
)
土器
(
どき
)
の
変化
(
へんか
)
松戸で発見された
土器
どき
をよく調べ、ほかの場所の土器とくらべると、にた特ちょうをもつ土器とそうでない土器が見つかる場所があることがわかります。このように、
弥生時代
やよいじだい
の
関東地方
かんとうちほう
は、土器のちがいから、いくつもの地域に分かれていたことがわかります。ところが、3世紀になると、関東よりも西の地域の特ちょうをもつ土器が、あちこちで見られるようになってきます。これは、西の人々が、どんどん関東に移ってきたからです。そのせいで、土器のちがいが消えていき、私たちが
古墳時代
こふんじだい
と呼ぶ時代をむかえるのです。
× とじる
生活
(
せいかつ
)
の
変化
(
へんか
)
生活
(
せいかつ
)
の
変化
(
へんか
)
5世紀になると、海の向こうの
朝鮮半島
ちょうせんはんとう
から、多くの人々がわたって来ました。だから
渡来人
とらいじん
といいます。渡来人は、それまでなかった、かたくて灰色をした
土器
どき
を作る技術を持っていました。また、家のなかには、かまどと呼ばれる土器を火にかけて料理をする場所もつくられるようになりました。ほかにも、鉄の武器や道具を作ったり、使ったり、さらには馬に乗ったりと、渡来人の技術と文化は、日本列島へ大きなえいきょうをあたえました。
× とじる
河原塚
(
かわらづか
)
1
号
(
ごう
)
墳
(
ふん
)
と
古墳
(
こふん
)
群
(
ぐん
)
河原塚
(
かわらづか
)
1
号
(
ごう
)
墳
(
ふん
)
と
古墳
(
こふん
)
群
(
ぐん
)
新八柱駅と東松戸駅の間の
河原塚
かわらづか
には、5つの
古墳
こふん
があります。大きさが26mもある
河原塚1号墳
かわらづかいちごうふん
では、50さいくらいの男性と3さいくらいのこどもが、
刀
かたな
などの武器やネックレスといっしょにうめられていました。この2人は、家族だったかもしれませんね。
× とじる
神
(
かみ
)
まつりの
変化
(
へんか
)
神
(
かみ
)
まつりの
変化
(
へんか
)
古墳時代
こふんじだい
の
遺跡
いせき
からは、武器や鏡などのミニチュア品が見つかることがあります。やわらかい石をけずって作られた、まるでおもちゃのようなですが、神様をおまつりする時に使われる、大切なものであったと考えられています。
× とじる
6
世紀
(
せいき
)
の
古墳
(
こふん
)
と
埴輪
(
はにわ
)
6
世紀
(
せいき
)
の
古墳
(
こふん
)
と
埴輪
(
はにわ
)
古墳
こふん
のまわりには、
埴輪
はにわ
と呼ばれるものが立ち並べられていました。埴輪はねん土で作られ、時期や場所によって、つつ形のものや人物・動物・建物など、さまざまな形があります。松戸の埴輪は千葉県北部よりも、埼玉県や群馬県と似ているものが見つかっています。
× とじる
古代
下総
(
しもうさの
)
国
(
くに
)
のはじまり
下総
(
しもうさの
)
国
(
くに
)
のはじまり
古代
こだい
になると、
国家
こっか
が
律令
りつりょう
というルールを決め、人々をおさめるようになります。松戸では、むかしの人がつけていたベルトのかざり、文字が書かれたお皿などが見つかっています。
× とじる
銙帯金具
(
かたいかなぐ
)
銙帯金具
(
かたいかなぐ
)
昔の役人(
公務員
こうむいん
)のベルトには、身分を示すために、金属や石のかざりが使われていました。松戸駅近くの
小野遺跡
おのいせき
では、平安時代のベルトかざりが、そろった状態で見つかりました。市川市にあった
下総国府
しもうさこくふ
に勤めていたのでしょうか。それとも修理していたのでしょうか。
× とじる
墨書
(
ぼくしょ
)
土器
(
どき
)
「
石世
(
いわせ
)
」
墨書
(
ぼくしょ
)
土器
(
どき
)
「
石世
(
いわせ
)
」
小野遺跡
おのいせき
のあたりは、130年前の明治時代まで、
岩瀬村
いわせむら
と呼ばれていました。ここからは、「石世」と書かれた土器が見つかっています。「いわせ」と読めますが、小野遺跡は、なんと1200年前の遺跡です。松戸市で確認できる、もっとも古い地名かもしれません。
× とじる
墨書
(
ぼくしょ
)
土器
(
どき
)
「
國
(
くにの
)
厨
(
くりや
)
」
墨書
(
ぼくしょ
)
土器
(
どき
)
「
國
(
くにの
)
厨
(
くりや
)
」
「
厨
くりや
」は台所です。ここでは国の役所の台所、1200年くらい前なので、市川市にあった、
下総国
しもうさのくに
の
国府
こくふ
のキッチンを指します。ところがこれは松戸市の南、
紙敷
かみしき
の
坂花遺跡
さかはないせき
の、お墓から見つかりました。うめられた人物が役所と関係があるのでしょう。料理人でしょうか。
× とじる
中世
中世
(
ちゅうせい
)
とは
中世
(
ちゅうせい
)
とは
武士
ぶし
が政治の真ん中に
坐
すわ
る時代が来ました。武士の時代には2つあって、多くの戦いが起こった
鎌倉
かまくら
・
室町
むろまち
という時代と、その次の平和な
江戸
えど
時代に分けられます。博物館の持っている資料をもとに、室町時代後半、その名も
戦国
せんごく
とも呼ばれる時代の松戸や、そのまわりの世界を見ていきます。
× とじる
戦国時代
(
せんごくじだい
)
戦国時代
(
せんごくじだい
)
戦国時代
せんごくじだい
、日本中にたくさんの城が作られました。戦争にそなえるためです。それでは450年ほど前の松戸で、どんな戦争があったのでしょうか。
× とじる
北条
(
ほうじょう
)
氏康
(
うじやす
)
書状
(
しょじょう
)
北条
(
ほうじょう
)
氏康
(
うじやす
)
書状
(
しょじょう
)
450年ほど前、
武士
ぶし
たちがはげしく争った
戦国時代
せんごくじだい
の事件が書かれています。
小金城
こがねじょう
の
高城
たかぎ
氏は、市川の
国府台
こうのだい
までせめて来た
里見
さとみ
氏が、じつは戦争の準備ができていないことまで調べています。そのしらせを受けた
味方
みかた
の
北条
ほうじょう
氏はすぐ、
家来
けらい
たちに
出陣
しゅつじん
を命じるこの命令書を出して軍隊をととのえ、急いで里見氏をこうげきしたのです。高城氏の
情報
じょうほう
のおかげで北条氏が大勝利したこの戦いは、
国府台合戦
こうのだいかっせん
と呼ばれています。
× とじる
北
(
ほう
)
条
(
じょう
)
家
(
け
)
朱印状
(
しゅいんじょう
)
北
(
ほう
)
条
(
じょう
)
家
(
け
)
朱印状
(
しゅいんじょう
)
市川でおこった
国府台合戦
こうのだいかっせん
で、
小金城主高城
こがねじょうしゅたかぎ
氏は
大活躍
だいかつやく
でした。さらにこの
文書
もんじょ
からは、大戦争になると、高城氏のような近所だけでなく、遠くに住む
武士
ぶし
たちも加わることがわかります。
北条
ほうじょう
氏は国府台から150㎞もはなれた静岡県の、
西原
にしはら
という武士が戦ったことをほめて、毎年あげる米を増やすと約束しています。これは
恩賞
おんしょう
といって、命をかけた戦いの代わりにあたえられる、
給料
きゅうりょう
なのです。
× とじる
足利義氏
(
あしかがよしうじ
)
書状
(
しょじょう
)
足利義氏
(
あしかがよしうじ
)
書状
(
しょじょう
)
1行目に「
凶徒
きょうと
」が「
臼井
うすい
」をせめた、と書いてあります。「
凶悪
きょうあく
な
連中
れんちゅう
」と書かれたのは、有名な
戦国武将
せんごくぶしょう
の
上杉謙信
うえすぎけんしん
です。謙信に攻められた佐倉市の
臼井城
うすいじょう
は、
原
はら
という千葉県でも指折りの武将の城で、じつは
小金城
こがねじょう
も原氏から
高城
たかぎ
氏へゆずられたものでした。そんな原氏でも謙信にはかなわないため、
北条
ほうじょう
氏の助けを借りたことが、この文書からわかります。4行目には「
五千余手負
ごせんあまりのておい
・
死人
しびと
」と、上杉のけが人と
戦死者
せんししゃ
は5,000人以上とあります。北条氏との戦争で毎年関東にせめ入った謙信も、この
敗北
はいぼく
で動きが止まります。北条氏や千葉氏・原氏・高城氏の敵は、
国府台
こうのだい
でも戦った
里見
さとみ
氏にかぎられてきました。
大きながぞうをみる
× とじる
千葉
(
ちば
)
胤
(
たね
)
冨
(
とみ
)
書状
(
しょじょう
)
千葉
(
ちば
)
胤
(
たね
)
冨
(
とみ
)
書状
(
しょじょう
)
1行目、「敵」はいきなり「松戸・市川
迄
まで
相
あ
い
散
ち
らし」と、松戸と市川の畑をめちゃくちゃにして、麦や野菜を食べられなくしました。
国府台
こうのだい
でも戦った
里見
さとみ
氏です。別の
文書
もんじょ
では、あの
上杉謙信
うえすぎけんしん
が佐倉市の
臼井城
うすいじょう
をこうげきしていましたが、この文書2行目、里見氏は松戸・市川の次に、「
臼井筋
うすいすじ
之
の
郷村
ごうそん
放火
ほうか
」と村々に放火したことがわかります。松戸と市川では食べ物をダメにして、臼井では多くの家を焼く。つまり里見氏は、
武士
ぶし
と武士との戦争をしなかったのです。戦わないので、おたがいに死者は出ないようにも思えます。でも、家や食べ物を失った人々が、どうやって生きていくのか。女性やこどもに
高齢者
こうれいしゃ
と、戦争に行かない人々へも、寒さと
飢
う
えがおそいかかった冬かもしれません。
大きながぞうをみる
× とじる
北
(
ほう
)
条
(
じょう
)
家
(
け
)
朱印状
(
しゅいんじょう
)
北
(
ほう
)
条
(
じょう
)
家
(
け
)
朱印状
(
しゅいんじょう
)
松戸から西に300㎞以上はなれた愛知県で、
豊臣秀吉
とよとみひでよし
と
徳川家康
とくがわいえやす
の戦争が始まったころ。
関東地方
かんとうちほう
でも家康と親しい
北条
ほうじょう
氏と、北条と仲の悪い
武士
ぶし
たちとの間で戦争が起こり、4か月も続きます。
小金城
こがねじょう
から北へ90㎞くらいはなれた栃木県です。
高城
たかぎ
氏はこの時、戦場での食べものを貸したのですが、戦争が終わっても
代金
だいきん
がはらわれないから何とかして欲しい、と北条氏へうったえました。
小金領
こがねりょう
・小金城に
君臨
くんりん
した高城氏も、外の世界では力が
通用
つうよう
しないこともあったのです。
× とじる
小
(
こ
)
金城
(
がねじょう
)
図
(
ず
)
写
(
うつし
)
小
(
こ
)
金城
(
がねじょう
)
図
(
ず
)
写
(
うつし
)
栗ヶ沢
くりがさわ
には、
戦国時代
せんごくじだい
よりも前から、
高城
たかぎ
氏がいたことがわかっています。100年以上続いた戦いの世が終わり、江戸時代に作られたこの絵の脇には「栗ヶ沢には高城氏の
家来
けらい
の城のあとがある」と書かれています。平和な時代の人々が見ても、簡単に城とわかる
遺跡
いせき
が、栗ヶ沢には残されていたのでしょう。正確な場所がわからないのが、残念です。
大きながぞうをみる
× とじる
小
(
こ
)
金城
(
がねじょう
)
模型
(
もけい
)
小
(
こ
)
金城
(
がねじょう
)
模型
(
もけい
)
小金城は、千葉県でも指折りの大きな城です。この模型で、もともとの自然な地形を上手に利用した、
防御力
ぼうぎょりょく
アップ方法を見てみましょう。細長い谷を深く、広く、長く
掘
ほ
ってゆくと、大きな
堀
ほり
ができます。掘った時に余る土を、城の高い方高い方へと、くり返し積み上げて固めると土のかべ、
土塁
どるい
ができます。堀の底と土塁の上までは長くて急なしゃ面になるので、せめる側は大変な体力と時間を使って登ることになります。城を守る側は、もたもたとゆっくり動く敵を、石や弓矢や
鉄砲
てっぽう
でねらいうち、となるのです。
× とじる
カワラケと
銅銭
(
どうせん
)
と
弾丸
(
だんがん
)
カワラケと
銅銭
(
どうせん
)
と
弾丸
(
だんがん
)
うす茶色の
土器
どき
の上に、とけた銅がくっついています。もともとは酒を飲むのに使うカワラケという土器ですが、いったい、なぜ銅が? じつは当時のお金、銅銭をわざととかして、
鉄砲
てっぽう
の
弾丸
だんがん
を作ろうとしたらしいのです。ふだんはもっと簡単に作れる
鉛
なまり
を使うのですが、戦争中に弾丸が足らなくなったのでしょうか。右側の弾丸にも同じ色のさびが付いているので、両方とも銅をたくさんふくんだ金属だとわかるのです。
× とじる
近世
江戸時代
(
えどじだい
)
の
村
(
むら
)
江戸時代
(
えどじだい
)
の
村
(
むら
)
新しい
武士
ぶし
の政府、
江戸幕府
えどばくふ
ができたことで
戦国時代
せんごくじだい
は終わり、平和が訪れます。幕府はお米を中心に税を取ったので、村づくりに力をいれました。新しく江戸川のちかくでは田んぼの、台地の上には畑の村も生まれ、古い村を合わせると57もの村がいまの松戸市内で確認できるのです。
おうちミュージアムはこちら
× とじる
検地
(
けんち
)
と
村高
(
むらだか
)
検地
(
けんち
)
と
村高
(
むらだか
)
村をおさめた
武士
ぶし
は、
村人
むらびと
から
年貢
ねんぐ
(いまの税金)を取るため、
農家
のうか
の土地の面積から、農作物がどれくらいとれるかまで細かく調べました。この土地の検査を、
検地
けんち
といいます。検地をもとに、一つの村からどのくらい年貢をとるかを決めました。年貢はお金ではなく、米で納めました。
× とじる
年貢
(
ねんぐ
)
納入
(
のうにゅう
)
のしくみ
年貢
(
ねんぐ
)
納入
(
のうにゅう
)
のしくみ
検地
けんち
で、田んぼと畑といった土地の区別や、土地ごとに作物がよく取れるかどうか細かく調べたのち、秋になると
武士
ぶし
は、その年の村の作物の本当のできぐあいを調べ、
年貢
ねんぐ
の量を決めました。
害虫
がいちゅう
や
洪水
こうずい
のせいで米があまり取れなかったり、逆に天気が良くてたくさん取れたりと、年によってずいぶん差が出るからです。村に出された「
年貢割付状
ねんぐわりつけじょう
」は、年貢の量が書かれた取り決め書です。
× とじる
村
(
むら
)
の
娯楽
(
ごらく
)
庚申
(
こうしん
)
講
(
こう
)
村
(
むら
)
の
娯楽
(
ごらく
)
庚申
(
こうしん
)
講
(
こう
)
60日に一度の
庚申
こうしん
の日、夜にねむると人の体のなかにいる虫がぬけ出し、その人が行なった悪いことを神様に告げ口するので命がちぢむ、と考えられました。そこで虫がぬけ出さないように、
夜通
よどお
し料理やお酒を楽しみながら過ごすようになります。これが「
庚申待
こうしんまち
」です。同じ目的のために人々が集まることを「
講
こう
」といいますが、にぎやかに盛り上がる
庚申講
こうしんこう
が、全国各地にできたのも当然ですね。
× とじる
庚申
(
こうしん
)
講
(
こう
)
の
料理
(
りょうり
)
庚申
(
こうしん
)
講
(
こう
)
の
料理
(
りょうり
)
今から200年以上前の文化2年(1805)に
紙敷
かみしき
村(現在の松戸市南部)で書かれた「
庚申待講帳
こうしんまちこうちょう
」には、
庚申待
こうしんまち
で出した食事の材料の値段が書かれています。それをもとに総合展示室では、「ごはん」「
白
しら
あえ」「
煮物
にもの
」「お
吸
す
い物」「お酒」を再現しています。
× とじる
宿場
(
しゅくば
)
と
河岸
(
かし
)
宿場
(
しゅくば
)
と
河岸
(
かし
)
鉄道の駅や大きな道路にそって店ができて、多くの人が集まるように、交通によって暮らしは豊かになります。
江戸時代
えどじだい
の交通は大きな道と川が
支
ささ
えていました。
松戸宿
まつどしゅく
には、日本をおさめた
将軍
しょうぐん
が住む
江戸
えど
と、その親せきが住む
水戸
みと
を結ぶ、重要な
水戸道中
みとどうちゅう
が通り、たくさんの店ができてにぎわいました。また松戸宿の近くには江戸川が流れ、川の港の
河岸
かし
が作られ、物や人を運びました。鉄道や自動車のない江戸時代には、川の交通がさかんだったのです。
もっと詳しくみる
× とじる
水戸
(
みと
)
道中
(
どうちゅう
)
水戸
(
みと
)
道中
(
どうちゅう
)
水戸道中
みとどうちゅう
は、
日本橋
にほんばし
(いまの東京都中央区)と
将軍
しょうぐん
の親せきが住む水戸を結んだ大きな道で、2番目の宿が松戸、3番目の宿が
小金
こがね
です。宿とは、食事をしたり
泊
と
まる店などがあり、人が集まってにぎわった場所です。日本橋から水戸までの約120㎞の間には、17の宿がありました。
× とじる
金町
(
かなまち
)
松戸
(
まつど
)
関所
(
せきしょ
)
金町
(
かなまち
)
松戸
(
まつど
)
関所
(
せきしょ
)
江戸川をはさんで、松戸の反対側にある
金町村
かなまちむら
(東京都葛飾区)に
金町松戸関所
かなまちまつどせきしょ
がありました。関所は
将軍
しょうぐん
が住む江戸を守るために、
旅人
たびびと
や荷物を調べるチェックポイントでした。
特に「
入
い
り
鉄砲
でっぽう
に
出女
でおんな
」といって、江戸に武器が入ること、江戸から身分が高い武士の妻やむすめが断りなく出ることを、きびしく取りしまりました。関所を通るときは、住所や年などを記した
往来手形
おうらいてがた
が必要でした。
× とじる
松戸
(
まつど
)
宿
(
しゅく
)
松戸
(
まつど
)
宿
(
しゅく
)
松戸宿の中心は、
本陣
ほんじん
や
脇本陣
わきほんじん
、
問屋場
といやば
のあった、今の松戸神社あたりの
宮前町
みやまえちょう
でした。本陣は身分の高い武士が
泊
と
まった
旅館
りょかん
です。問屋場は
旅人
たびびと
や荷物を次の宿に送るため、人と馬を用意しました。このほか水戸道中に沿った松戸宿には、安い旅館の
旅籠
はたご
が28けん、食べ物屋が33けんなど、300をこえる
建物
たてもの
が連なっていました。
× とじる
小金
(
こがね
)
宿
(
しゅく
)
小金
(
こがね
)
宿
(
しゅく
)
小金宿
こがねしゅく
には、約400年も前の
室町時代
むろまちじだい
にすでに、いくつかの町があり、
江戸時代
えどじだい
になると
上町
かみちょう
・
中町
なかちょう
・
下町
しもちょう
・
横町
よこちょう
ができました。中町には
本陣
ほんじん
と
脇本陣
わきほんじん
、
問屋場
といやば
や、お
坊
ぼう
さん用の大学でもあった
東漸寺
とうぜんじ
がありました。下町にはかつては
虚無僧
こむそう
のお寺、
一月寺
いちげつじ
があり、竹のたて
笛
ぶえ
尺八
しゃくはち
で、他にはない
修行
しゅぎょう
をしていました。
× とじる
宿場
(
しゅくば
)
と
助郷
(
すけごう
)
宿場
(
しゅくば
)
と
助郷
(
すけごう
)
松戸宿や小金宿などの宿場は、
幕府
ばくふ
の荷物と
旅人
たびびと
のため、人と馬を用意しなければなりませんでした。
水戸道中
みとどうちゅう
を通る人が増えると、幕府は宿のまわりの村々にも
人馬
じんば
を出すように命じました。これが
助郷役
すけごうやく
で、重い負担となりました。
× とじる
松戸
(
まつど
)
の
河岸
(
かし
)
松戸
(
まつど
)
の
河岸
(
かし
)
自動車や鉄道のなかった
江戸時代
えどじだい
、江戸川には荷物と人を上げ下ろしする
河岸
かし
があちこちにできて、多くの船が
行
い
き
来
き
しました。たとえば、
銚子
ちょうし
から船で
利根川
とねがわ
をさかのぼり、
布佐
ふさ
(
我孫子市
あびこし
)で陸にあげられた魚は、馬で
松戸河岸
まつどがし
まで運ばれ、ふたたび船で
日本橋
にほんばし
(東京都中央区)の
魚市場
うおいちば
まで届けられたのです。
もっと詳しくみる
× とじる
小金
(
こがね
)
牧
(
まき
)
と
御
(
お
)
鹿狩
(
ししがり
)
小金
(
こがね
)
牧
(
まき
)
と
御
(
お
)
鹿狩
(
ししがり
)
江戸幕府
えどばくふ
は
台地
だいち
の上に
小金牧
こがねまき
という、馬の
牧場
まきば
をつくりました。馬は放し
飼
が
いにして育て、年に1度、元気な馬をつかまえて、おす
馬
うま
は
武士
ぶし
が乗るために、めす馬は農作業や荷物運びに使いました。また
将軍
しょうぐん
は、今の
五香
ごこう
・
松飛台
まつひだい
のあたりで、
大勢
おおぜい
の武士と農民を使った
小金原
こがねはら
御鹿狩
おししがり
を4回行いました。
× とじる
小金
(
こがね
)
牧
(
まき
)
小金
(
こがね
)
牧
(
まき
)
約400年前、
江戸幕府
えどばくふ
は広大な野原を利用して
小金牧
こがねまき
を作りました。地平線までひろがる小金牧で、のんびりと暮らす野生の馬の姿は、江戸で大人気の絵師、
歌川広重
うたがわひろしげ
によってえがかれました。
× とじる
野馬
(
のま
)
捕
(
と
)
りの
献
(
けん
)
額
(
がく
)
野馬
(
のま
)
捕
(
と
)
りの
献
(
けん
)
額
(
がく
)
小金牧
こがねまき
の馬の世話や牧の手入れは、村の中でも限られたいえがらの人しかできませんでした。
福昌寺
ふくしょうじ
(
幸谷観音
こうやかんのん
)には、そのような農民たちが昔をなつかしんで、
江戸時代
えどじだい
が終わって間もない明治15年(1882)にお
供
そな
えした、大きな
板絵
いたえ
があります。馬を追いこんで捕まえるようす、それを楽しそうに見物する人たちなどをえがいています。
× とじる
御
(
お
)
鹿狩
(
ししがり
)
御
(
お
)
鹿狩
(
ししがり
)
徳川将軍
とくがわしょうぐん
が行った、大がかりな
狩
か
りを
御鹿狩
おししがり
といいます。3人の将軍が、
大勢
おおぜい
の
武士
ぶし
と農民を使って合計4回行いました。農作物を食いあらすシカやイノシシなどを狩るだけでなく、戦争に備える訓練をすることも目的でした。馬を走らせながら弓矢でけものを狩る技や、
大軍
たいぐん
を時間通りに移動させる方法など、どれも戦争で必要とされたものなのです。
× とじる
百姓
(
ひゃくしょう
)
勢子
(
せこ
)
百姓
(
ひゃくしょう
)
勢子
(
せこ
)
たくさんの動物を
狩
か
りの場所(いまの
五香
ごこう
・
松飛台
まつひだい
)まで追いこんでから、
御鹿狩
おししがり
は行われました。はるか遠くから何日もかけて、えものを追いこむのは、農民たちの仕事でした。1795年に行われた3回目の御鹿狩の時は、380をこえる村から80,000人以上が出て、シカやイノシシなどを追いました。
× とじる
江戸川
(
えどがわ
)
の
船橋
(
ふなばし
)
江戸川
(
えどがわ
)
の
船橋
(
ふなばし
)
幕府
ばくふ
は
将軍
しょうぐん
にさからう敵があらわれた時でも、
江戸
えど
へは簡単にせめてこられないように、大きな川には橋をかけませんでした。しかし
御鹿狩
おししがり
の時は別です。将軍が江戸川をわたるため、20せきをこえる船をつなぎ、木をわたした上にむしろや土をのせ、手すりまでつけた
船橋
ふなばし
を作りました。
× とじる
近代
近代
(
きんだい
)
とは
近代
(
きんだい
)
とは
日本では、
武士
ぶし
が主役の時代が終わるのと、
写真
しゃしん
がふえてくるのが同じころです。かみがたや服そう、
乗
の
り物・
建物
たてもの
といった人々のすがたや物が、少しづつ私たちの時代に近づいてくるようすを、写真で見てみましょう。
× とじる
金町から松戸の
渡船場
(
とせんじょう
)
を
望
(
のぞ
)
む
金町から松戸の
渡船場
(
とせんじょう
)
を
望
(
のぞ
)
む
年代
1908年
所蔵表記
葛飾区郷土と天文の博物館所蔵
× とじる
常磐線鉄橋
(
じょうばんせんてっきょう
)
を
渡
(
わた
)
る
蒸気
(
じょうき
)
機関車
(
きかんしゃ
)
と
江戸川
(
えどがわ
)
の
帆船
(
はんせん
)
常磐線鉄橋
(
じょうばんせんてっきょう
)
を
渡
(
わた
)
る
蒸気
(
じょうき
)
機関車
(
きかんしゃ
)
と
江戸川
(
えどがわ
)
の
帆船
(
はんせん
)
年代
1910年前後
所蔵表記
岡進氏所蔵
× とじる
明治時代末の松戸
納屋河岸
(
なやかし
)
明治時代末の松戸
納屋河岸
(
なやかし
)
年代
1910年前後
所蔵表記
戸定歴史館所蔵(徳川昭武撮影)
× とじる
用水路から田へ水を
揚
(
あ
)
げる
踏車
(
ふみぐるま
)
用水路から田へ水を
揚
(
あ
)
げる
踏車
(
ふみぐるま
)
年代
1910年前後
所蔵表記
岡進氏所蔵
× とじる
明治44年の松戸
駅
(
えき
)
時刻表
(
じこくひょう
)
明治44年の松戸
駅
(
えき
)
時刻表
(
じこくひょう
)
年代
1911年
所蔵表記
松戸市立博物館所蔵
× とじる
松戸
駅前
(
えきまえ
)
の
人力車
(
じんりきしゃ
)
松戸
駅前
(
えきまえ
)
の
人力車
(
じんりきしゃ
)
年代
1911年
所蔵表記
戸定歴史館所蔵(徳川昭武撮影)
× とじる
千葉県
東葛飾郡役所
(
ひがしかつしかぐんやくしょ
)
千葉県
東葛飾郡役所
(
ひがしかつしかぐんやくしょ
)
年代
1910年~1920年代
所蔵表記
吉野誠旧蔵・流山市立博物館所蔵
× とじる
共同肥料の
運搬
(
うんぱん
)
共同肥料の
運搬
(
うんぱん
)
年代
1910年~1920年代
所蔵表記
吉野誠旧蔵・流山市立博物館所蔵
× とじる
対岸から見た松戸町
対岸から見た松戸町
年代
1910年~1920年代
所蔵表記
吉野誠旧蔵・流山市立博物館所蔵
× とじる
松戸
警察署前
(
けいさつしょまえ
)
の八木村
消防組
(
しょうぼうぐみ
)
松戸
警察署前
(
けいさつしょまえ
)
の八木村
消防組
(
しょうぼうぐみ
)
年代
1910年~1920年代
所蔵表記
吉野誠旧蔵・流山市立博物館所蔵
× とじる
松戸町
役場
(
やくば
)
松戸町
役場
(
やくば
)
年代
1910年~1920年代
所蔵表記
吉野誠旧蔵・流山市立博物館所蔵
× とじる
馬橋駅
(
まばしえき
)
馬橋駅
(
まばしえき
)
年代
1925年
所蔵表記
吉野誠旧蔵・流山市立博物館所蔵
× とじる
陸軍
(
りくぐん
)
工兵学校生の
架橋訓練
(
かきょうくんれん
)
陸軍
(
りくぐん
)
工兵学校生の
架橋訓練
(
かきょうくんれん
)
年代
1926年
所蔵表記
葛飾区郷土と天文の博物館所蔵
× とじる
木製
(
もくせい
)
の
葛飾橋
(
かつしかばし
)
木製
(
もくせい
)
の
葛飾橋
(
かつしかばし
)
年代
1927年以前
所蔵表記
吉野誠旧蔵・流山市立博物館所蔵
× とじる
松戸町2丁目の渡辺バス
松戸町2丁目の渡辺バス
年代
1930年頃
所蔵表記
所蔵者未詳
× とじる
ある日の松戸駅前
ある日の松戸駅前
年代
1930年頃
所蔵表記
所蔵者未詳
× とじる
秋山あたりの林バス
秋山あたりの林バス
年代
1932年頃
所蔵表記
所蔵者未詳
× とじる
千葉県
連合防空訓練
(
れんごうぼうくうくんれん
)
の県
知事視察
(
ちじしさつ
)
千葉県
連合防空訓練
(
れんごうぼうくうくんれん
)
の県
知事視察
(
ちじしさつ
)
年代
1939年
所蔵表記
所蔵者未詳
× とじる
松戸市松戸1丁目で交通
整理
(
せいり
)
する
警察官
(
けいさつかん
)
松戸市松戸1丁目で交通
整理
(
せいり
)
する
警察官
(
けいさつかん
)
年代
1959年
所蔵表記
所蔵者未詳
× とじる
現代
下谷
(
したや
)
・
谷津
(
やつ
)
・
台
(
だい
)
下谷
(
したや
)
・
谷津
(
やつ
)
・
台
(
だい
)
松戸市は土地の低いところ、高いところ、川に近いところ、川から遠いところなど、場所によってようすがちがっています。市内を
下谷
したや
・
谷津
やつ
・
台
だい
の3つにわけて、昭和35年(1960)ごろのくらしのようすをみてみましょう。
× とじる
下谷
(
したや
)
下谷
(
したや
)
松戸市の西側、
坂川
さかがわ
が流れるあたりは低い土地で、田んぼが広がっていました。
台風
たいふう
のシーズンには
洪水
こうずい
がおきるので、たびたび水につかってしまいました。
× とじる
下谷
(
したや
)
の
水田
(
すいでん
)
下谷
(
したや
)
の
水田
(
すいでん
)
秋の水害をさけるため、下谷では
早稲
わせ
と呼ばれる種類の米を植えました。早稲は早く成長するので、8月ごろに
稲穂
いなほ
が出て9月すぎには収かくできます。刈り取られたいねは、田の
畦
あぜ
に植えられた、水に強いハンノキに掛けて干しました。太陽に当てて干すと、余分な水分がぬけて傷みにくく、おいしくなるのです。
踏車
ふみぐるま
は、羽根の部分を足でふんで回し、水をくみあげる水車で、下谷ではこの水車を使って田に水をくみあげていました。
× とじる
舟
(
ふね
)
舟
(
ふね
)
いねを運ぶ4~5メートルの長さの舟を
田舟
たぶね
といい、南北に延びるほり(水路のこと)に浮かべていねを運びました。
舟はいねを運ぶだけでなく、台風でこう水が起きた時のひ難にも使われました。水がかなり高いところまでくることもあるので、舟は
母屋
おもや
や
納屋
なや
などののき下につりさげていました。
× とじる
下谷
(
したや
)
のすまい
下谷
(
したや
)
のすまい
この集落では、
自然堤防
しぜんていぼう
という、少し高くなった場所を選んで家を建てています。自然堤防は、こう水の時に運ばれた
土砂
どしゃ
が積み重なってできた土地で、水はけがよく畑としても利用されてきました。
家が建っている土地全体が「ジンギョ」と呼ばれる盛り土になっていて、土を盛った高さが数十センチから数メートルにもなることがあります。
この家では、
母屋
おもや
の裏にある倉をさらに高くして、こう水になっても大切なものが水につからないように工夫と準備をしていたのです。
× とじる
谷津
(
やつ
)
谷津
(
やつ
)
松戸市のまん中あたりは坂が多く、高いところと低いところが入りくんでいます。低いところはわき水を利用する田んぼで、高いところは
雑木林
ぞうきばやし
でした。
× とじる
谷津田
(
やつだ
)
谷津田
(
やつだ
)
谷津田
やつだ
は谷底の平たい土地に開かれた水田で、谷の奥から流れてくるわき水を使うため、水不足やこう水の心配がいりませんでした。しかし、はい水が悪く、こしまで水につかってしまう
深田
ふかだ
もあります。深田で作業するときは、足がしずまないように工夫された「カンジキ」という
田下駄
たげた
をはいたり、タケやマツの木を水田に入れてそれを足場にして作業しました。
× とじる
ヤマ
ヤマ
台地の多くはヤマと呼ばれる林でシイ・コナラ・クヌギなどが多く、一部にはスギやマツも植えられた
雑木林
ぞうきばやし
でした。
ヤマでは、燃料や
堆肥
たいひ
(ひりょうのこと)となる
枯
か
れ枝や落ち葉を手に入れることができました。
燃料となる小枝は、
背負梯子
しょいばしご
(はしごを背負っているように見える道具)に積んで運びました。これを使えば、荷車では通れないような道の細い急しゃ面でも小枝を運ぶことができたのです。
× とじる
谷津
(
やつ
)
のすまい
谷津
(
やつ
)
のすまい
谷津では、南または東向きの台地の下に
母屋
おもや
を建てる家が多く見られます。家のすぐ前に水田が広がっているので、農作業をするのに便利でした。
母屋
おもや
が台地を背にしていることと、
母屋
おもや
のまわりにケヤキやシイなどの背の高い木が植えられていることで、冬の北西風(季節風)を防ぐ風よけになりました。
× とじる
台
(
だい
)
台
(
だい
)
松戸市の東側は、なだらかな台地になっています。
雑木林
ぞうきばやし
と畑が広がっていました。
× とじる
台
(
だい
)
の
畑作
(
はたさく
)
台
(
だい
)
の
畑作
(
はたさく
)
台では畑作が盛んで、特に面積が大きいのは秋に植え付ける麦でした。水はけの良い台地の特ちょうを生かして、麦を育てる合間に
陸稲
おかぼ
(畑で育てるいね)、サツマイモ、サトイモが作られました。ダイコンやゴボウ、ネギなど、土の中で育つ野菜にも適した場所でした。
野菜類は、
背負籠
しょいかご
という、割った竹で編んだかごに入れて運びました。たくさんの野菜をかごに入れて背負っても、かたが痛くならないように、使い古されたボロ布で
負
お
い
紐
ひも
を作るという工夫がされています。
× とじる
井戸
(
いど
)
井戸
(
いど
)
台では2種類の井戸を掘って使いました。ひとつは
本井戸
ほんいど
という深さ7〜1明治時代の戸定邸メートルまで掘り下げた井戸で、もうひとつは
宙井戸
ちゅういど
という、深さ2~6メートルのところにたまった地下水を
汲
く
みあげて使う井戸です。台には川やわき水がないので、井戸水は貴重な生活用水でした。
× とじる
台
(
だい
)
のすまい
台
(
だい
)
のすまい
台では谷津と同じように母屋の南側に畑を持っているので、農作業に便利でした。冬の北西風(季節風)を防ぐためのヤマと呼ばれる
雑木林
ぞうきばやし
を設けて、風よけにする家が規則的に並んでいました。
× とじる
現代団地
常盤平
(
ときわだいら
)
団地
(
だんち
)
の
誕生
(
たんじょう
)
常盤平
(
ときわだいら
)
団地
(
だんち
)
の
誕生
(
たんじょう
)
松戸市は、あちこちに田んぼや畑が大きく広がり、
農家
のうか
がたくさんありました。しかし、今から60年ぐらい前に4,839
戸
こ
の
常盤平団地
ときわだいらだんち
ができてから、東京の会社などで働く人と家族が住むようになり、松戸市に住む人々がどんどん増えていきました。常盤平団地は、
水洗
すいせん
トイレやステンレスの流し台などを備えた、最新の住まいでした。
× とじる
ステンレスの
流
(
なが
)
し
台
(
だい
)
ステンレスの
流
(
なが
)
し
台
(
だい
)
60年ぐらい前の家では「ジントギの流し」と呼ばれた、セメントに細かくくだいた石などを混ぜてつくった流し台が使われていました。それとはちがい、
常盤平団地
ときわだいらだんち
のキッチンには、手入れが
簡単
かんたん
で
清潔
せいけつ
なステンレスの流し台が使われました。いまのわたしたちがふつうに使っている流し台は、このようにしてはじまったのです。
× とじる
水洗
(
すいせん
)
トイレ
水洗
(
すいせん
)
トイレ
今では当たり前の
水洗
すいせん
トイレですが、むかしのトイレは、
便器
べんき
の下のタンクにうんちやおしっこをそのままためていたので、とてもくさいところでした。
常盤平団地
ときわだいらだんち
に取り付けられた水洗トイレは、この欠点を消してしまいました。しかし、まだ使い慣れていない人が多かったので、
下水管
げすいかん
を
詰
つ
まらせないために、トイレットペーパーだけを使うように注意をしています。
× とじる
白黒
(
しろくろ
)
テレビ
白黒
(
しろくろ
)
テレビ
テレビ放送は1953年から始まりました。テレビは始めとても
高価
こうか
でしたが、だんだんと値段が下がったこともあって、多くの人がテレビ番組を家で楽しむようになっていきました。これは白黒テレビ、つまり白と黒の色のこい、うすいだけの画面です。60年ぐらい前のテレビ番組は、ほとんどが白黒放送だったのです。
× とじる
電気
(
でんき
)
洗濯機
(
せんたくき
)
電気
(
でんき
)
洗濯機
(
せんたくき
)
電気洗濯機
でんきせんたくき
は、60年ぐらい前には多くの人が使うようになりました。それまでは、たらいに水やお湯を入れ、ギザギザがついた
洗濯板
せんたくいた
に一枚一枚
衣服
いふく
をこすりながら洗っていたのです。手洗いの洗濯は、長い時間がかかるとてもつかれる
水仕事
みずしごと
でした。電気洗濯機は、手洗いの洗濯から人々を開放した重要な電気製品でした。
× とじる
電気
(
でんき
)
冷蔵庫
(
れいぞうこ
)
電気
(
でんき
)
冷蔵庫
(
れいぞうこ
)
冷蔵庫
れいぞうこ
は、電気を使わずに氷で冷やしていたことを知っていますか?
氷式冷蔵庫
こおりしきれいぞうこ
といって、大きな氷を入れて食べ物を冷やすしくみで、夏によく使われました。しかし、氷がとけたらおしまいで、氷を取りかえなければなりませんでした。電気冷蔵庫は、食べ物をずっと冷やし続けることができ、氷式冷蔵庫に比べて大変に便利なものでした。初めはとても高価だった電気冷蔵庫ですが、だんだんと値段が下がり、多くの人が使うようになりました。
× とじる
電気
(
でんき
)
釜
(
がま
)
電気
(
でんき
)
釜
(
がま
)
1955年に発売された
電気釜
でんきがま
は、ご飯がたけると自動でスイッチが切れ、
火加減
ひかげん
も気にする必要がなく、おいしくたけると
評判
ひょうばん
になりました。3年間で200万台も売れた大ヒット商品で、他の会社も続々と作り始め、さらに多くの人が使うようになりました。
× とじる
ダイニングテーブルと
椅子
(
いす
)
ダイニングテーブルと
椅子
(
いす
)
日本人は長い間、たたみに座って食事をしてきました。ところが
常盤平団地
ときわだいらだんち
に住み始めた人たちは、すぐにイスとダイニングテーブルを買い、ダイニングキッチンと呼ばれる板の間の台所で食事するようになりました。60年前ぐらい前にはイスとテーブルで食事することが、新しい生活だったのです。
× とじる